岡崎と疏水関連遺産ぐるり その2
引き続きご訪問いただきましてありがとうございます。
これは平安京の地図ですが、平安京時代赤い枠の中(洛中)にお寺は何か所あったと思いますか?
京都やし、数えきれんほどあったんちゃうん。。。?と思いますよね。。。。
でもね、この赤枠の中に東寺と西寺のみの2か所だったそうです。赤枠の外側(洛外)には結構あったそうなんですが。。。。
なぜだかわかりますか?
そう、お坊さんに力をつけさせないためだそうです。平清盛の大河ドラマでもありましたが延暦寺のお坊さんを見てみるとわかりますよね。
京都市動物園の近く跡には、法勝寺九重塔があったとされます。
高さ81Mほどあったとされ、平安神宮の鳥居の高さの4倍ほどの高さですから当時としてはかなり大きな建物だったんでしょうね。
平安神宮ではいろいろなイベントが催され、今回のぐるり旅の後に行ってきましたが古着や骨とう品などが出品されていました。
是非、機会があれば足を運んでみてはいかがでしょうか?
市民の憩いの場所でもあるので、家族で出かけるのも良いですね。
続いてインクラインです。
ここは桜でも有名な場所ですね。
明治期の京都一大プロジェクト琵琶湖疏水事業
第3代京都府知事の北垣国道が灌漑(かんがい「農地など人工的に水を供給すること」)、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画した。そして主任技術者として、工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を任じ、設計監督にあたらせた。
当時、大学を出たばかりの若い青年にこの事業を託せた府知事もすごいけど、やってのけた当時の田邉朔郎さんもすごい方だったんですね。
(写真下)ブラタモリでも放送されましたが、レールを枕木に固定する犬釘だそうです。真上からの写真ですが、横から見ると犬の横顔なんだそうです。
どんな感じで動いていたのか想像がつかないのですが。。。。
今まで私はこの真ん中のレール2本がメインだと思っていたのですが、両端にもレールがあったんですね。。。
二つ路線だとは考えたことが無かったです。。。。(あほやね~~~。)
この台車に舟を乗せ水路まで運んでたという事なんですよね。。。。
理解力が乏しくてすみません。。。
開通から十数年は客貨とも大いに利用された。 貨物では、大津からの下りは米・砂利・薪炭・木材・煉瓦など、伏見からの上りは薪炭などであった。しかし競合陸運(主として鉄道)の発展により衰退し、伏見行き下りは1935年にゼロとなり、大津行き上り貨物は1936年以降なくなった。伏見行き下りは第2次世界大戦中に運航が再開されたが、1948年(昭和23年)には蹴上インクラインも運転を停止した。最後となったのは、1951年(昭和26年)9月に大津から山科まで運ばれた4.5tの砂利であった。
先人たちの大きな夢が今の京都につながっていると思うと感謝しないではいられないですね。
こんな素敵な小道もありますよ。
どんどん歩いていくと道が細くなってきました。
見るとわかりますが、道を広げるために写真右側のレンガが明治時代のレンガで左が現在の物だそうです。
この道を下りていくと。。。。
下から見た水路です。
凄いですね、このレンガもすべてこのために自分たちで作ったものだそうです。
外国から輸入されたものは、ダイナマイトとレールのみだとか。。。。
3月29日から琵琶湖疏水船が運行されます。
ちょうど桜の時期と重なって情緒あふれる船旅が楽しめそうです。